CyaNのブログ

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

ラーメンとアカシックレコード

 焼肉の次はラーメンかと思ったそこのあなた。人間生活の基本は衣食住であり、一様に1/3ずつ分布していると仮定すれば、同じテーマが2連続で続く確率は1/3もある。そんなに厭わしく思わないでほしい。

 食べ物ばっかで冴えない男子のインスタかよと思ったそこのあなた。首を横に振ることはしないので、そういうことにしておいてほしい。

 ところで、誰しも好きな食べ物くらいはあるだろう。ものは違えど、舌の好むところにベストマッチするようなものが一つや二つ、もしくはそれ以上あることかと思う。

 ちなみに、何故それが好きなのかと問いたいのだが、それはあまりに愚問かもしれない。そんなもの、美味しいからに決まっている。何かを美味しいと感じるのに理由なんて不要だろう。美味しいから美味しいのだ。

 とどのつまり、個人の味覚に訴えるものがあったということだろう。だが、我々は食に興じるとき、必ずしも味覚だけで知覚している訳ではない。それは、焼けた肉の香ばしい匂いが鼻をくすぐるとか、口に入れた瞬間溶けてなくなるとか、そういう話をしているのではない。人間に備わった第六感が、心の味蕾が感じるものがあると言いたいのだ。

 分かりやすそうなところで言えば、家族で食卓を囲んで食べるご飯が美味しいとか、他人の奢りで食べる焼肉は美味いとか、そういうことである。我々は、食物の化学組成を超えて、「食事」というものを堪能している。

 個人的に昔から好きな飲み物がある。とはいっても、毎朝ほうれん草を一束まるまるスムージーにして飲んでいるだとか、そのレベルで好んで飲んでいるという訳ではないのだが、唐突にメロンソーダが飲みたくなることが定期的に、そこそこ頻繁に起こる。バイトが終わった23時、このコロナ禍に空いている飲食店などある訳もなく、仕方なくマクドナルドでテイクアウトを注文するときには、セットドリンクはほとんどの確率でファンタメロンである(たまに気分でファンタグレープになる)。

 飲むまでもなく匂いだけで分かる、あの甘ったるい砂糖味の炭酸水。メロンを真似る気の一切感じられない、毒々しく着色された緑色。どの角度から視ても体に悪そうなことは明瞭である。だが、それがいい。劇薬じみたあの飲料を、体に悪いと分かっていながら咽喉を経て胃へと直接流し込むあの背徳感。それこそがメロンソーダの旨味である。次第に毒が血管を巡り巡って、体が高揚感を覚え始める。鉛筆しか許されていないのに、こっそり筆箱に製図用シャーペンを仕込んでいる小学生のような気持ちになる。どんなアルコールにも真似できない。清涼飲料水の名は伊達ではない。

 その点で言えば、人工甘味料など偽善に他ならない。あたかもカロリーだけ抑えましたなどと謳っているようだが、あんなものはなんの肥やしにもならない。体に悪いからこそ美味いのだ。美味しいものは糖と脂肪でできているとはよく言ったものだ。

 昔はあんなに美味しかったのに、今ではその美味しさが全く思い出せないものもある。昔とは言っても、遡ることたった5年弱、部活や委員会を終えて日が落ちきる前の時間帯。透き通った赤色が美味しそうにすら錯覚する午後6時過ぎ。校門を出てすぐのところにあるファミリーマートに皆で足並み揃えて最短距離で向かう。そしてファミマの前でたまって駄弁りながら食べるファミチキのどんなに美味いことか。家でご飯を作って待ってくれているお母さんに申し訳なさを感じる余裕もなく、周りが白色の街灯に転換されるまで続けた他愛もない話が、最高にスパイシーだった。

 今ではその味も忘れてしまった。昔はあれだけ高く感じた180円も、毎月何万円も入ってくるバイト代に比べたら端金も端金である。小腹さえ満たせない脂っこい肉の一体何が美味かったのか、思い出す術などもう無いのだろう。

 しかし、それとは対照的に、食べる度に昔を思い出させてくれる食べ物もある。それこそがラーメンだ。

 思い返せば、この半生はラーメンと共にあったように思える。一杯の器で完結した潔い姿勢。高校生のたまの贅沢に丁度いい値段。どんなイベントにもラーメンは欠かせなかった。今でさえ下宿はラーメンの激戦区のすぐ近くに(偶然)構えているし、コロナ禍が始まって大学の食堂に通わなくなってからは、週7でラーメンを食べていた(反動で3日間くらいサラダしか食べれない日が訪れもしたが)。

 テストが終わったときには必ず誰かとラーメンを食べに行っていた。疲れ果てた脳に糖と脂がよく染みたものだ。8人くらいで押しかけて、全員分のポイントをかっさらっていったのも鮮明に覚えている。わざわざポイント2倍デーを狙って行った日には、一瞬でランクアップしたものだ。お陰様で、5,6回しか通っていないのに、毎回トッピング2種が無料で貰えるところまでいった。

 大学受験の前日、県外の大学を受けるために前泊しようと、初めて1人で新幹線に乗ろうというときにも、故郷を発つ前に、お気に入りの油そばで兜の帯を締めた。そして当然向こうでも夕食は毎回ラーメンで、帰ってからも行きと同じラーメン屋で自らを労わった。ラーメンの食べ過ぎで受験本番に体調を崩すことなど、当時の自分は考えもしなかったのだろう。

 ラーメンは人生だ。いや、人生がラーメンと言うべきかもしれない。豪快に麺を啜る度に、麺に練り込まれた記憶がデコードされていく。喉に重く残る豚骨の脂も、鼻を吹き抜ける精妙な魚介出汁の香りも、カウンターで2人語り合った20分間を思い出すには十分過ぎた。一杯食べ終わった頃には、この半生を反芻している。

 ラーメンが語るのは何も過去だけではない。今や国民食となったラーメン、一度その器を交わせば誰もが友達である。気まぐれにラーメン屋に寄っては、新しい出会いを器に刻んでいく。

 たった700円、されど700円。その一杯に人生を語るにはあまりに安すぎるような気もするが、庶民にはB級くらいがお似合いだし、そういうのは全くもって嫌いじゃない。

 ちなみに大学入学前に血液検査を受けたら、尿酸値だけが異常値を示していた。原因は言うまでもない。

元担当生徒を叙々苑に連れていった話

 執筆意欲ないし表現欲とは唐突に湧いてくるもので、おそらく秋の空よりも移ろうのがはやい。思い立ったが吉日ということで、叙々苑に行った話でもしようと思う。

 4月某日、塾で担当していた生徒の合格祝いに叙々苑に行くことになった。もちろん受験を終えて良いところに連れていってあげたいという餞の気持ちもあったが、本音はもう少し邪だ。元担当生徒(以下、S君と呼ぶことにする)は運動部出身童顔太眉の絵に書いたようなThe少年で、焼肉なんて牛タンとカルビしか食べたことなさそうだし、なんなら岩すらも無邪気に食ってそうな模範的(元)男子高校生。そんな彼に法外な価格の肉を食べさせたら一体どんな反応を見せるのだろうという、純度100%の好奇心と偏見だけで万単位の食事を奢ることを決意した。

 京都にある叙々苑は、游玄亭という叙々苑の中でもさらにハイランクなお店で、場所もパーカー1枚で入ろうもんなら門前払いをくらいそうな高級ビルの中に構えられている。可能な限り身嗜みを整えて、いざエレベーターへと足を踏み入れると、そこはまさしくサッポロ黒ラベルのCMに出てくるような大人のエレベーターで、あまりの仰々しさに7階のボタンを押しただけでお腹が痛くなった。

 食事場所は完全個室制で、失礼な話、庶民の目にはちょっとギラついたカラオケ店のように映った。強いていえば、個室の扉が全て自動ドアになっているあたりが上位互換なのだろう。個室に入るとまず初めにメニューを手渡されるのだが、メニューの表紙が鉄板でできている時点でもはや笑いそうになった。正確には鉄板ではないのだろうが、それくらい、我々の感覚からしたらメニュー表に似つかわしくないものが表紙を飾っていたのだ。そして当然ながらメニューの中身もなかなかなお値段。S君は自分の注文したコーラが650円もすることを嬉しそうにツイートしていた(本当に嬉しそうにしていたかは覚えていないし、ツイートしているのを見て自分がなんだか嬉しくなっていただけかもしれない)。全ての個室には仲居さんが付いており、お通しやタレが入ったやつ(一般名詞不詳)などを持ってきてくださったのだが、終いには油が跳ねてもいいように一人ひとりエプロンをつけてくださった。「歯医者さんじゃん。」という下劣なツッコミをいれたい衝動を必死に抑えるも、口角だけは我慢しきれずつり上がってしまった。

 既に1000字弱書いているというのに未だに肉の話がないのだが、満を持してお出ましである。もう値段を気にしても仕方ないので、半分ヤケクソな気持ちで手当り次第肉を頼んだ。と言いたいところだが、おそらくみんなサブリミナルに躊躇していて、小手調べにほどほどの量を注文。

 まず初めに牛タンが届いた。普通の肉と違うのは美味しさだけではなく、焼け方も違うように感じた。おそらくあの肉は誰が焼いても上手く焼ける。焦げないように注意さえしていれば、半自動的に美味しい焼肉ができるようになっているに違いない。そんなこんなで牛タンは焼き上がり、箸が口に運ぶ前に自分の口蓋がお出迎えする。

 「美味い。」

 確かに美味いのだが、我々の知っている牛タンとは明らかに違う。というより、我々の知っている牛タンが牛タンでなかったのかもしれない。いくら味わっても不出来な味覚は正しく味を認識してくれないのだが、頭の中にひたすら「美味しい」という文字列が、さながら全盛期のニコニコ動画のように駆け巡る。S君も興奮のままに米と一緒にかきこんでいたが、とはいっても食べ盛り特有のダム排水並の食べっぷりではなく、味わうために舌の上で律速になっていたように思える(未曾有の美味しさに味覚がバグっていただけかもしれないが)。もう少し感想を具体化したいのだが、言葉にすると知覚がチンケなものに上書きされてしまいそうなので皆さんの想像にお任せすることにする(全くブログを有効活用できていない)。ちなみに3000円で6枚しかないため、実質500円玉を食べてるのと同じだと気づいてからは美味しさが1/10ほどまで落ちてしまったのはまた別の話である。

 他にもカルビなりハラミなりが届いたが、その日のメーンディッシュはそれではない。我々は舌がつりそうになりながら震えた喉で注文した。

 「シャトーブリアンを1つお願いします。」

 これだ。これが新歓もまともに経験していないS君の味覚を4月上旬にして完全に破壊する最終兵器である。味付けは同期チョイスの黒胡椒で。

 未知の世界に手をかけた興奮も冷めぬうちに、我々はシャトーブリアンに謁見することになる。

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 なんかもう、まず我々の知っている肉の形をしていない。ソクラテスでさえも己の無知を恥じることだろう。霜の降りたエアーズロックをサイコロ状に切り分け、網の上で火を通し、鮮やかな赤色を帯びた秋の渓流の岩肌を、箸で丁寧に持ち上げ、何もつけずに頂く。

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 「……」

 かのウィトゲンシュタインは、彼の著書『論理哲学論考』を「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と締めている。庶民の味覚ではこれを語ることはできない。少なくとも、味として認識することはでない。真夏の焼き付けるような匂いが鼻を刺激したと思いきや、口に入れた途端、雪が溶け、春の馨しい香りが口の中一杯に拡がった。そもそもこれは肉なのか?どう考えても我々が知っている肉の食感ではない。もはや、「美味い」という知覚にしか肉との共通点が見い出せない。何度噛んでも肉汁(肉汁なのかも定かでない、旨み成分を豊富に含む液体に過ぎないかもしれない)が溢れてきて、明らかに質量保存則を無視している。これが俗に言うパラダイムシフトなのだろうと、悟るばかりであった。

 これが初めて経験した叙々苑の一部始終である。あまりのテンションの上がりように、会計の場でS君と先輩講師と背比べをするという下品な真似をした気もするが、そんなものは記す価値もない。お値段は4人で6万円強、ちなみにシャトーブリアンはその1/4を占めている。翌日には口がシャトーブリアンを求め始めていて、日常生活に支障をきたしていたのは既に遠い過去である。学生が行っていい場所であったのかは是非を問い難いが、祝い事の際には是非とも足を運んでみてほしい。