CyaNのブログ

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

元担当生徒を叙々苑に連れていった話

 執筆意欲ないし表現欲とは唐突に湧いてくるもので、おそらく秋の空よりも移ろうのがはやい。思い立ったが吉日ということで、叙々苑に行った話でもしようと思う。

 4月某日、塾で担当していた生徒の合格祝いに叙々苑に行くことになった。もちろん受験を終えて良いところに連れていってあげたいという餞の気持ちもあったが、本音はもう少し邪だ。元担当生徒(以下、S君と呼ぶことにする)は運動部出身童顔太眉の絵に書いたようなThe少年で、焼肉なんて牛タンとカルビしか食べたことなさそうだし、なんなら岩すらも無邪気に食ってそうな模範的(元)男子高校生。そんな彼に法外な価格の肉を食べさせたら一体どんな反応を見せるのだろうという、純度100%の好奇心と偏見だけで万単位の食事を奢ることを決意した。

 京都にある叙々苑は、游玄亭という叙々苑の中でもさらにハイランクなお店で、場所もパーカー1枚で入ろうもんなら門前払いをくらいそうな高級ビルの中に構えられている。可能な限り身嗜みを整えて、いざエレベーターへと足を踏み入れると、そこはまさしくサッポロ黒ラベルのCMに出てくるような大人のエレベーターで、あまりの仰々しさに7階のボタンを押しただけでお腹が痛くなった。

 食事場所は完全個室制で、失礼な話、庶民の目にはちょっとギラついたカラオケ店のように映った。強いていえば、個室の扉が全て自動ドアになっているあたりが上位互換なのだろう。個室に入るとまず初めにメニューを手渡されるのだが、メニューの表紙が鉄板でできている時点でもはや笑いそうになった。正確には鉄板ではないのだろうが、それくらい、我々の感覚からしたらメニュー表に似つかわしくないものが表紙を飾っていたのだ。そして当然ながらメニューの中身もなかなかなお値段。S君は自分の注文したコーラが650円もすることを嬉しそうにツイートしていた(本当に嬉しそうにしていたかは覚えていないし、ツイートしているのを見て自分がなんだか嬉しくなっていただけかもしれない)。全ての個室には仲居さんが付いており、お通しやタレが入ったやつ(一般名詞不詳)などを持ってきてくださったのだが、終いには油が跳ねてもいいように一人ひとりエプロンをつけてくださった。「歯医者さんじゃん。」という下劣なツッコミをいれたい衝動を必死に抑えるも、口角だけは我慢しきれずつり上がってしまった。

 既に1000字弱書いているというのに未だに肉の話がないのだが、満を持してお出ましである。もう値段を気にしても仕方ないので、半分ヤケクソな気持ちで手当り次第肉を頼んだ。と言いたいところだが、おそらくみんなサブリミナルに躊躇していて、小手調べにほどほどの量を注文。

 まず初めに牛タンが届いた。普通の肉と違うのは美味しさだけではなく、焼け方も違うように感じた。おそらくあの肉は誰が焼いても上手く焼ける。焦げないように注意さえしていれば、半自動的に美味しい焼肉ができるようになっているに違いない。そんなこんなで牛タンは焼き上がり、箸が口に運ぶ前に自分の口蓋がお出迎えする。

 「美味い。」

 確かに美味いのだが、我々の知っている牛タンとは明らかに違う。というより、我々の知っている牛タンが牛タンでなかったのかもしれない。いくら味わっても不出来な味覚は正しく味を認識してくれないのだが、頭の中にひたすら「美味しい」という文字列が、さながら全盛期のニコニコ動画のように駆け巡る。S君も興奮のままに米と一緒にかきこんでいたが、とはいっても食べ盛り特有のダム排水並の食べっぷりではなく、味わうために舌の上で律速になっていたように思える(未曾有の美味しさに味覚がバグっていただけかもしれないが)。もう少し感想を具体化したいのだが、言葉にすると知覚がチンケなものに上書きされてしまいそうなので皆さんの想像にお任せすることにする(全くブログを有効活用できていない)。ちなみに3000円で6枚しかないため、実質500円玉を食べてるのと同じだと気づいてからは美味しさが1/10ほどまで落ちてしまったのはまた別の話である。

 他にもカルビなりハラミなりが届いたが、その日のメーンディッシュはそれではない。我々は舌がつりそうになりながら震えた喉で注文した。

 「シャトーブリアンを1つお願いします。」

 これだ。これが新歓もまともに経験していないS君の味覚を4月上旬にして完全に破壊する最終兵器である。味付けは同期チョイスの黒胡椒で。

 未知の世界に手をかけた興奮も冷めぬうちに、我々はシャトーブリアンに謁見することになる。

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 なんかもう、まず我々の知っている肉の形をしていない。ソクラテスでさえも己の無知を恥じることだろう。霜の降りたエアーズロックをサイコロ状に切り分け、網の上で火を通し、鮮やかな赤色を帯びた秋の渓流の岩肌を、箸で丁寧に持ち上げ、何もつけずに頂く。

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 「……」

 かのウィトゲンシュタインは、彼の著書『論理哲学論考』を「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と締めている。庶民の味覚ではこれを語ることはできない。少なくとも、味として認識することはでない。真夏の焼き付けるような匂いが鼻を刺激したと思いきや、口に入れた途端、雪が溶け、春の馨しい香りが口の中一杯に拡がった。そもそもこれは肉なのか?どう考えても我々が知っている肉の食感ではない。もはや、「美味い」という知覚にしか肉との共通点が見い出せない。何度噛んでも肉汁(肉汁なのかも定かでない、旨み成分を豊富に含む液体に過ぎないかもしれない)が溢れてきて、明らかに質量保存則を無視している。これが俗に言うパラダイムシフトなのだろうと、悟るばかりであった。

 これが初めて経験した叙々苑の一部始終である。あまりのテンションの上がりように、会計の場でS君と先輩講師と背比べをするという下品な真似をした気もするが、そんなものは記す価値もない。お値段は4人で6万円強、ちなみにシャトーブリアンはその1/4を占めている。翌日には口がシャトーブリアンを求め始めていて、日常生活に支障をきたしていたのは既に遠い過去である。学生が行っていい場所であったのかは是非を問い難いが、祝い事の際には是非とも足を運んでみてほしい。